台北縣坪林郷 坪林舊橋について



二村 悟, 後藤 治
工学院大学 博士(工学)
キーワード:鉄筋コンクリート造, 台湾総督府土木部

1.はじめに
  台北縣坪林郷を流れる淡水河の支流・北勢渓に、坪林舊橋(以下、舊橋という。)と呼ばれる日治時代の鉄筋コンクリート造(以下、「RC 造」という。)の橋梁が残る。舊橋の架かる北宜公路はかつて台北宜蘭道と呼ばれ、明治31 年7 月坪林から宜蘭に近い礁渓へ、明治33 年台北から宜蘭まで、建設・開鑿工事された1)。本稿では、包種茶で有名な茶産地・坪林郷に残る、台湾でも最初期のRC 造橋梁について紹介する。

2.舊橋の概要
  舊橋は、明治43 年起工、同45 年7 月竣工で、長さ97m、幅4m、河川からの高さは不明である。
  構造は、RC 造である。桁の上に路面のある上路式で、橋脚の間・床版の下部にトラスが付くことから、橋の主体にトラスを用いた上路式トラス橋である。
  基壇は、舟形でモルタル仕上げ、脚部はひと回り小さく石貼り仕上げである。橋脚は、9 脚、10 径間で、河川と並行に架けられる。後述の案内板によると、大正13年に一番目の橋脚を修復したとするが確認はできない。
  舊橋は、1970 年坪林新橋の竣工とともに歩行用となり、現在は観光橋として活用されている。この際、床版は改修され、路面にインターロッキングブロックが敷かれた。路面の両側には、ブロック造の花壇が並ぶ。舊橋は新たに塗装され、トラスの表面のみ赤で塗られている。また、茶産地を象徴する急須型の街灯が設置されている。

3.舊橋の建設経緯
  舊橋の脇には、坪林郷公所による案内板が立てられている。ここでは、案内板をもとに建設経緯を紹介する。
  案内板によると、日治時代、台北から宜蘭への軍用物資、郵便を運ぶ必要上、台湾総督府(以下、「総督府」という。)の指示によって舊橋が架けられたとされる。当時の台湾は物資が欠乏しており、橋梁を架ける鉄筋、セメントなどの建材は、すべて日本から台北縣深坑郷に運ばれた。台北縣石碇郷からは、人馬を利用して、地元民が工事現場まで運搬し、施工を行ったとされる。
  案内板には、総督府との関与が記されている。『臺灣總督府土木事業概要』では、「明治四十一年ヨリ(中略)煉瓦工鐵筋混凝土工等永久的工法ニ改メツ、アルモ年額僅ニ二十餘萬円ヲ以テ道路一部ノ築造ニモ充テツ(中略)近年國費ヲ以テ重要道路ヲ開鑿スルノ運ニ達シ其ノ第一著トシテ桃園、宜蘭間ヲ聨絡スル蕃界横斷道路ハ大正元年度ヲ以テ起工セラレ」とし、「指定道路」に「台北宜蘭道」を最初期の施工にあげている2)。
  このように、明治43 年起工の舊橋は、明治41 年から総督府が土木事業として、主要部分を煉瓦造やRC 造の「永久的工法」に改めた道路に位置する。
  けれども、『臺灣總督府土木事業概要』で、「規制道路ノ維持ニ付イテハ其ノ内重要路線七百餘里ヲ指定シ地方税ノ負担トシ其ノ他ハ沿道人民ヲシテ維持ニ任セシム」とされるように、道路敷設は多額の出費がかかるので、政府もすべての経費を負担していたわけではない3)。この点から見ると、舊橋はすべての材料を日本から運んでおり、最初期の施工に含まれていることともに、交通の要衝であったことがわかる。このことから、舊橋は総督府の土木事業であったと考えて間違いない。

4.舊橋の設計者
  設計者については、案内板には記されていない。けれども、総督府の関与を確認することができた。『臺灣總督府土木事業概要』によると、「臺灣總督府ノ管掌ニ属スル土木行政ハ建築物ノ造営、修繕、鐵路、橋梁、港湾、河川、上水、下水、電気稗圳等ノ施設、維持並ニ対スル監督ヲモ包括シ」4)とされ、当時の橋梁建設が、総督府の土木事業であることが再確認できる。
  また、舊橋はRC 造である。これは、後述するように、日本と比べても最初期の導入事例である。技術者の中でも、最先端の技術を会得している技師の存在が必要である。この点から、先端技術で工事を施工していた総督府の技師による設計への関与は必然といえる。
  それでは、当時の総督府技師を見てみよう。舊橋の起工は、明治42 年10 月23 日付「台湾総督府土木部官制」5)の直後なので、その担当は総督府土木部工務課である。当時の工務課の技師は、部長・高橋辰次郎(土木・築港)、工務課長・徳見常雄(水利)、十川嘉太郎(水利・水道)、張令紀(水利)、大越大蔵(電気)、濱野弥四郎(水道)、堀見末子(土木)、庄野巻治(土木)、国広長重(電気)、清水一徳(水利)、川上浩二郎(基隆出張所長、築港)、堀内廣助、田上郷吉、三浦慶次(水道)、三木鹿三郎、小川亮吉である6)。
  中でも十川嘉太郎は、日本におけるRC 造の設計者の第一人者である。十川は、明治41 年台湾初のRC 造橋梁・景尾橋(現舊景美橋)を初め、多くのRC 造橋梁を設計している。また、明治43 年、技手の工学士・廣瀬蒼生彦もアーチ橋をRC 造で設計している。7)
  更に、堀見末子は、清水一徳が木造で設計した后里圳に架設する数十の橋を、明治43 年の着任早々すべてRC造で設計し直し、台湾神社前の明治橋(明治34 年竣工)の木造床版を鉄網コンクリートへと改修している8)。
  当時、工学士の廣瀬や、着任直後の堀見にRC 造を任せるなど、いまだRC 造技術が設計者に浸透していなかったことがわかる。十川や堀見の回想に舊橋はない。けれども、この点から見ると、彼等のいずれかが設計した可能性は高い。RC 造技術の導入という点でから見れば、工務課による設計であったことは間違いないだろう。
  一方、案内板には、第一番目の橋脚が洪水に遭って毀損・流失し、日本人技師「浦田佐」が現地の人々と協力して修復したとしている。しかし、浦田佐という建築、土木関係の技師については今のところ明らかではない。

5.当時の橋梁とRC 造橋梁技術
  さいごに、舊橋を当時の橋梁技術に見てみよう。
  当時、台湾の山間地では満足のいく橋梁はなく、竹イカダか渡し舟で河を渡っていた9)。大正6 年以降、産業の発達を図る上で必要な山地の道路政策が励行される。これ以降、山地の至る所に鉄線橋(吊橋)や桟橋が架けられる10)。坪林郷も同じ山地にあるが、明治期にRC 造で架橋されたことは、山地の橋としても珍しい例である。台湾のRC 造橋梁は、前記・十川嘉太郎の景尾橋が最初である。幅2 間、長さ50 間と舊橋の規模とほぼ同じで、現在は開道碑のみ残る。十川によると、明治43 年にRC 造の建造物が多く施工され、橋梁では十川が獅仔頭圳に水路橋を、廣瀬がアーチ橋を設計したという。11)
  日本では、田邊朔郎の明治36 年竣工・琵琶湖疎水橋が最初である12)。明治41 年6 月起工、同42 年11 月竣工・廣瀬橋は、『建築雑誌』誌上で「セメントの橋(日本嚆矢の設計)」として、「全部鉄筋コンクリートで作り上げられ我国では実に嚆矢の設計」13)と紹介されている。また、明治43 年7 月起工、同44 年11 月1 日開橋・横浜吉田橋、明治44 年5 月2 日起工、同45 年3 月1 日開橋・神田区今川橋(RC 造床版)が舊橋と同時期の橋梁である。
  この点から見ると、舊橋は明治43 年起工なので、日本と比較しても早期の例である。
  また、RC 造上路トラス橋という点から見ると、日本では京都府の大正3 年竣工の二ノ瀬橋のみである14)。ともに時期が近いことから、舊橋のトラスも二ノ橋同様、鉄骨にコンクリート被覆がなされている可能性がある。
  また、トラスの形状も特徴的である。日本では、管見の限り鉄骨造の大夕張鉄道旭沢橋梁(1928 年竣工)のみ同形状のトラスを持つ。
  橋脚は、1909 年刊行『鐵筋コンクリート拱橋』15)掲載の[図1]に似る。中心部はRC 造、仕上げは石貼りと考えられよう。
  このように、舊橋は橋の技術評価基準16)にして、「珍しさ」に該当し、日本のRC 造橋梁の導入
期と比較しても、特に人道橋梁としては早期の例である。「永久的工法」としてRC 造を導入したものの、施工技術に、いまだその構造的な理解が未成熟であった初期RC造橋梁として、貴重な土木遺産といえる。
  
6.まとめ
  本稿は、坪林舊橋について、以下の点を明らかとした。
①舊橋は、明治41 年から総督府が土木事業として行った指定道路の「永久的工法」を導入した初期の橋梁であり、総督府土木部工務課の設計と考えてよい。
②日本のRC 造橋梁と比べても最初期の事例である。
③RC 造上路トラス橋は日本でも一例しかなく、同様にトラスの形状も珍しい希少価値の高い例である。
  日本で舊橋の紹介例は管見の限り見られないが、総督府の初期の土木事業として、また初期のRC 造人道橋梁として土木史上重要な位置付けであることが判明した。


1) 伊藤潔:台湾,中央公論社,p88,2001.8.20、鶴見祐輔:後藤新平伝 台湾統治篇上,太平洋協会出版部,p150,1944.4.1
2) 臺灣總督府土木事業概要,臺灣總督府土木局,1916.4.2
3) 前掲:臺灣總督府土木事業概要、持地六三郎:台湾殖民政策,冨山房,1912.7.8,p78・258
4) 前掲:臺灣總督府土木事業概要
5) 公文類聚・第三十三編・1909・第三巻・官職二・官制二・官制二(内務省),国立公文書館
6) 堀見末子,向山寛夫:堀見末子土木技師 台湾土木の功労者,1990.731、職員録(甲),印刷局,1910,台湾総督府、黄俊銘:長尾半平と明治期の台湾営繕組織,土木史研究第11 号,土木学会,1991.6 参考
7) 十川嘉太郎・眞島健三郎:鐵筋コンクリートの思ひ出,土木建築工事畫報昭和十年十二月號,工事畫報社,pp263~266,1935.12、前掲:職員録
8) 前掲:堀見末子土木技師 台湾土木の功労者,pp319~320
9) 黄文雄:台湾は日本の植民地ではなかった,ワック出版,p116.2005.12.14
10) 張良澤・上野恵司編:FORMOSA 台湾原住民の風俗,白帝社,p22,1985.8.15、日本地理大系第十一巻台湾編,改造社1930.5.5
11) 前掲:鐵筋コンクリートの思ひ出
12) 辻正哲:1 番古い鉄筋コンクリート橋 琵琶湖疎水に架かる橋,コンクリート工学Vol.40 No.9,日本コンクリート工学協会,pp111~112,2002.9
13) 建築雑誌第23 巻第275 号,建築学会,p559,1909.11
14) 文化庁歴史的建造物調査研究会:建物の見方・しらべ方 近代土木遺産の保存と活用,ぎょうせい,p28,1998.8
15) 秋元繁松:鐵筋コンクリート拱橋,博文館,1909.6.31
16) 前掲:建物の見方・しらべ方 近代土木遺産の保存と活用

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